めおと舟 その32『おやこ舟 前編』

連載
めおと舟

 

前回までのあらすじ──。
『ボートレースで一発ブチ当てて引っ越せばいいじゃない』という妻の言葉から唐突に始まった夫婦共通の趣味・ボートレース。夫の職業がボトルネックになり肝心要の引っ越しそのものに暗雲が垂れこめるなかで迫る予定日。胃が痛むようなプレッシャーの中、夫の実家である長崎への一時帰郷案が突如持ち上がる──。

******

その時オイラは黄色いプラスチックの棒を握ってた。棒の先にはローラーと、それからエリマキトカゲを模した人形がついていて、地面をコロコロ転がすと、ちょうどトカゲが走ってるように足がくるくる回る。そういうおもちゃだった。別に欲しく無かったけど、テレビでよく見るエリマキトカゲの名前は知ってたので、売店にあるのを指差して名前を言ったらパパが買ってくれた。受け取ってローラーを転がす。足が回転する。走らせてみると面白かったので建物中を転がした。片手におもちゃ。もう片方でパパと手をつないでた。どこかに連れて行かれてるのは分かったけど、そこが何処かは分からない。白い床。生まれて初めて飛行機を見た。ずいぶん後になって知ったけど、そこは長崎空港だった。

家を出てから随分経っていた。そろそろお腹も空いてきたし早く帰りたかったけど、その「帰る先」がその日から変わった事をオイラは理解していなかった。車に乗って2時間。佐世保市の古い民家に到着した。老婆がオイラの頭を撫でる。むず痒い気分だった。ママはどこかな? そのうちくるだろうけど、そもそも何でオイラはパパと二人でこんな所にいるのだろう?

夜だった。オレンジ色の常夜灯。座敷に敷かれた布団でパパと一緒に寝た。オレンジ色の光が気持ち悪い。「家」ではこんな光はついてなかった。ママはまだ来ない。見慣れない仏壇がある。ここはどこだろう。なんでここで寝てるのか分からない。不安になって起き上がる。オレンジ色の光がとてもイヤだった。あれを消して欲しい。気付いたらオイラは大声で泣いていた。帰りたい。帰りたい。気持ち悪い。ここは嫌いだ。早く帰ろうよ。帰りたいんだ。そうしていると、パパが目を覚ました。オレンジ色の光に照らされて、困ったような、泣きたいような顔をしていた。

*********

ひと仕事を終えてコーヒーを飲んでいると、ピノコが膝の上に乗ってきた。顔をマッサージしながらディスプレイ横の時計に目を向ける。そろそろはるが帰ってくる時間だ。帰郷まであと数日。今回はそんなに長い時間は居ないので準備もたかがしれている。が、問題はこいつだ。猫である。

「またオイラもはるもどっかいくからなァ。ピノ。またいつものおじさんが来てくれるから仲良くしてやってくれよ」
「メーェ……」

オイラとはるは良く旅行にいく。すきあらば行く。趣味といっていい。結婚からまだまる2年程度しか経っていないけど、その間に長崎、大阪、沖縄、そしてもう一回大阪。今度はまた長崎。年2くらいのペースでどこかしら行ってる。猫を飼ってる人に共通の悩みのひとつとして「旅行に行けない」というのがあるそうだが、我々にとってはその心配は無用だった。首の骨を鳴らし、ピノのお尻を軽く叩く。膝の上で一度のびを作ってから、ぴょんと飛び降りる。ズボンを履き替えてセーターを着込み、それから口を濯いで家を出た。

(バーで待ってるぜ。そろそろマスターにお願いしにいこう)
(わかった! ヨガ終わったらすぐいく!)

歩きながらはるにラインを送る。バー。とは、我々の家から歩いて2分ほどの所にあるビリーというお店だ。我々は実はそのお店で出会い、そして結婚式代わりのパーティもそこでひらいた。そういう意味ではマスターはキューピッドだし頭が上がらないのだけど、もうひとつ、氏には重大な恩がある。

「チワッス。お疲れッス。マスター」
「ああ、ひろしくん。お疲れさま。はるちゃんは?」
「あとから来るって。……とりあえずラムのお湯割りで」

10席ほどで満席になるカウンターだけの小さなお店。壁にはマイケル・ジャクソンのレコードジャケットが所狭しと貼られている。オイラはマイケル・ジャクソンには興味が無く単純に家から近いから通っていたのだけど、妻にとっては真逆だった。マイケル・ジャクソンの曲を聴くために、遠くから通っていたとの事。つまり、この店がマイケルのコンセプトバーじゃなかったら彼女はこの店に来てる可能性はゼロだったし、オイラの妻になる事もなかった。そういう意味では、マイケルもまた恩人だ。

出された酒をちびちびちと飲みながら、軽いノリで切り出す。

「マスター、20日からまたピノコお願いできますか?」
「ん。いいよ。いつまで?」
「22日の夜まで」
「分かった。部屋掃除しといて」
「うっす」

黙々と酒を飲むオイラ。マスターも椅子に座ってスマホをいじる。時折「へへ」とか笑い声が聞こえる。二人きりのときは大体こんな感じだ。もはや6年以上、一時期はほぼ毎晩といっても良いくらい通っていたので、話すネタもほぼない。唯一、共通の趣味であるパチスロに関しても一時期はよく話してたものだけど──。

「パチスロ行ってる?」
「いやぁ。オイラ今月はまだ行けてないんですよね」
「俺も全然行けてないんだよねェ……」

こんな感じで、そもそもあんまり行けてないので話題にしずらい。

「舟は? やってる? 最近」
「それなりに……」
「どう? 勝率は」
「ボロボロです」
「へへ……」

とぎれとぎれの感じでしばらくぼーっと話してたら、ドアが開いた。はるだ。

「お疲れェ……。どうだった。ヨガ」
「うん。吊られてた! マスター、ラムのお湯割りください」
「かしこまりました」
「あ、ひろし、ピノコのお願いした?」
「うん。大丈夫だってよ」
「マスター、ありがとう。お土産買ってくるね」
「お土産は要らないよ。一杯写真とってきてよ」
「あ、マスター、俺にももう一杯同じのを……」

はると乾杯する。タバコに火をつけて煙を反対方向に吐く。

「ひろしくん、長崎に帰るのいつ以来?」

マスターから聞かれてちょっと考えた。去年は結局帰らなかったので、まる2年ぶりという事になる。その事を告げると、マスターは「そうかぁ」と言って続けた。

「もうお父さんも結構歳でしょ? 何歳?」
「何歳だろう……。75とか? そのくらいかなァ」
「あー、だよねぇ。ちょくちょく帰っておいた方がいいよ。帰れる時に」
「うーん。分かっては居るんですけども、なかなか先立つものがねぇ……」
「今回は何で帰るんだっけ。法事?」
「うん。そうです。あとは……。牡蠣食いに。かなぁ」
「佐世保バーガーも!」
「ああ。はるは佐世保バーガー結構ハマってたねぇ」
「うん! 美味しかった!」

ああ、それから……。と言ってからオイラはまたタバコに火を付けた。反対側に煙を吐いてすぐに消す。よく人から驚かれるけど、オイラはタバコを2口くらいしか吸わない。贅沢な吸い方に思われるからもしれないけど、3口目からは単純に美味しくないからだ。

「それから、ボートレースに行きますよ」
「ボートレース……。大村?」
「そう。ボートレース大村。しかもオヤジと」
「へぇ。楽しそうだね」
「まー、でも来てくれるかなぁ……。というのもあるんですよね」
「ああ。車で空港に迎えに来てくれるってこと? それから一緒にボートいくんだ」
「そうですそうです。さすが元・長崎県民。話が早い」

マスターと仲良くなった理由はパチスロという共通の趣味があったのもあるけど、なんと同郷の出なのである。なので「土産は要らない」のだ。

「お父さんボートやるの?」
「いやー、やんないみたいです。楽しんで貰えればいいけど」
「楽しいと思うよ。2年ぶりに会う息子と、そのお嫁さんいるんでしょ。何したって楽しいと思うよ」
「まあ……。うん……。ですかねぇ……」
「絶対そうだよ。だってお父さん今ひとりで住んでるんでしょ?」
「そう……。ですね。ひとりです」

父の母、エーコさんが亡くなってから、オヤジはずっと一人で暮らしているはずだ。未だ仕事を続けているので特に寂しくはないはずだけど、それでもたまに電話で話すとちょっと何言ってるか良くわからない事がある。つまり、滑舌が悪くなってきてるのだ。一人暮らしの老人特有の、舌の筋肉の衰え。

「だから、楽しいと思うよ。迎えにも絶対来てくれるよ。たぶんカレンダーに丸とかつけてさ。指折り数えてると思うよ。ひろしくんとはるちゃんが帰ってくるの」
「そうかなぁ……」
「そうさ」

──その夜、手荷物を少なくするため実家の近くのコンビニに荷物を送った。着替えと、それから東京土産をいくつか。

月の下。はると手をつないで歩く。実家。長崎。オヤジ。酔が回った頭にふと、オイラが初めてあの家の子になった日の事が思い出された。

「4歳か……5歳だよなぁ……。気付いたらオイラ、実家の座敷で寝てたんだよね」
「うん」
「気持ち悪くてさ。オレンジ色の……常夜灯ってわかる?」
「あー。分かる」
「そう。東京の家じゃそういうの使ったことなかったんだけど、佐世保の家は広いからさ。常夜灯を付けて寝る習慣があって……。なんだこれって。ここどこだろうってふと気付いてね。オイラ泣いちゃってさ」
「うん……」
「座敷あんじゃん、うちの」
「ああ、お父さんが寝てた部屋でしょ。お仏壇置いてある」
「そう。そこ。そんでその横の部屋……。箪笥が置いてある6畳間にエーコ婆ちゃんが寝てて。オイラ初めて会う人だしさ。近づきたくなかったんだけど、パパ──オヤジが背中を押して、『おばあちゃんの所にいきな』って」

*******

背中を押されて、布団から出る。常夜灯。オレンジ色の光が背後から伸びて、箪笥の影が畳に伸びていた。暗い。黒い影だ。4歳か5歳か、まだこないだまでバブバブだったオイラの目には、それが畳に口を開ける大穴に見えた。踏み出せない。怖い。ふと目を向けると、向こうの部屋には笑顔の女性がいた。おばあちゃんだ。布団を半分開いて。こちらに体を向けていた。腕を開いて、オイラを呼ぶ。

「ひろしくん、ほら、おいで」
「ひろし、おばあちゃんの所にいきな」
「こっち。ほら、おいで──」
「ひろし──」

なんでオイラはここにいるんだろう。もう一度思った。何でこんなに怖い思いをしてるのだろう。なんにも分からなかった。泣きながら、祈るような気持ちで足を踏み出す。黒い大穴はやっぱりただの影で、足の裏にはしっかりと畳の感触が帰ってきた。もう一歩。一歩。やがて隣の部屋にたどり着いたオイラは、おばあちゃんの布団に潜り込んで、そうしてその胸に掻き抱かれるようにしながら、すぐに眠ってしまった。

──その日から、オイラはその家の子になったのだった。

 

著者プロフィール画像
あしの

浅草在住。猫とホラー映画とパチスロを愛する39歳。パチ7にて『インタビューウィズスロッター』連載中。『5スロで稼げるか?』(www.5suro.com/blog)の中の人。ボートレースはからっきし初学者ですが、自分自身で楽しみながらその面白さをお伝えしていきたいと思います。

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