めおと舟 その39『水入らずにも程がある』

連載
めおと舟

前回までのあらすじ──。
『ボートレースで一発ブチ当てて引っ越せばいいじゃない』という妻の言葉から唐突に始まった夫婦共通の趣味・ボートレース。順調にハマる夫婦だったが肝心の引っ越しに関しては夫の職業がボトルネックになり暗雲が垂れこめる。そして本格的なコロナ禍がやってきた。

2020年4月1日というと、ギャンブラーにとってはひとつ重大な変化があった日だった。それが「パチンコホール内での全面禁煙化」だ。いわゆる改正健康増進法の施行という奴なのだけども、これがなかなかの大事件だ。そもそもタバコを吸わない人にとっては1ミリも影響がない事ではあるのだけども、喫煙者、かつパチンコ・パチスロ愛好家にとっては決して無視できない逆風も逆風である。

そして実はこの日、あんまり騒がれていないもののもうひとつの改正法施行がなされている。そう。改正労働者派遣法だ。いわゆる「同一労働同一賃金」の実現のため、喧々諤々の議論を経てようやくなされたかなり大きな改正なのだけども、コロナ禍、そして禁煙化、さらに国民的コメディアン志村けんさんの訃報と重なった事もあり、メディアでの扱いは極めて小さい。

知らん人の為に解説しとくと、これはざっくり「(派遣先の)社員と派遣の賃金格差を小さくしようぜ」というもので、内部規則じゃなくてれっきとした法令であるゆえ(ほぼ派遣元へだが、一部派遣先企業への)罰則もバッチリ用意されている。例えば今まで派遣社員の「給与交渉」というのは派遣元企業担当者の人柄に委ねられていた部分が非常に大きかったのだけど、今回の改正によりそれが「配慮義務」という形で義務化されたために無視できなくなる。それどころか社員の昇給情報なども派遣先・派遣元で共有される事になるので、そういう情報があった場合派遣元は先回りして「あしのさん来月から給料上げますね」と言わねばならなくなるのである。今まで派遣社員には無関係だった春闘やらベースアップやらの情報も、今後はバッチリ関係者として見守る事になるわけだ。

なんでオイラがそんなに「派遣」のことを知ってるかというと妻が現在進行系で派遣社員だからなのだけども、まあ聡い人は誰でも気づくようにこの4月1日というのは「派遣先変更」を考える上で超絶・絶好のタイミングだったわけである。だって改正改正法にあわせて強気で給与交渉できるから。さらに折からの人手不足もあっていま派遣市場は恐ろしいほどの売り手市場だ。法律が改正されたからといってやっぱり一度働きはじめてからの給与交渉は骨が折れるのは変わらないだろうけども、これだけ後ろ盾がそろっていれば「入り口」の交渉難易度は大幅に下がる。

ちなみにコレをご覧の派遣の皆様にもいっとくと、給与交渉は定期的に、そして絶対にやっておいた方がいい。「上がんねーよ」と思うかもしれんが、いや、上がるのである。絶好の見本がオイラだ。オイラは専業のライターとして独立する前に数年間派遣で働いていた。すぐに業務委託になったけども、半年に一回くらいは欠かさず給与交渉してたし、それが実際に効いていた。最終的には同じ業務してる派遣社員の、おそらく1.5倍くらいは貰ってたと思う。実際のところ1.5倍上がったら上がった分だけ欠勤して物書きしたりマスクかぶってパチスロ打ったりしてたんで、要するに「時給を休みに交換して、その休みをさらに原稿料に変えて倍率ドン」という荒技を使っていた。まさに現代の錬金術である。雇ってる方としては「こいつなんでこんな頻繁に扁桃腺腫れるんだよ。もう取っちまえよその扁桃腺」と思ってただろうけども、それがまた業務委託の良い所で、つまり結果さえ出せばなんとでもなる業務だったんでマジで欠勤に関しては最後まで何も言われなかった。

でだ。

とにかく何が言いたいかというと派遣社員にとってこの4月1日は絶好の転職タイミングであったし、我が妻もそのビッグウェーブに乗ったわけだ。はるちゃん。同業・他職種に転職の巻。経理・事務から畑違いの仕事になるので多少の緊張はあったようだけども……果たして今の彼女はというと……。

「ねー、ひろし……」
「ンー。なんだい」
「狭いねこの部屋」
「だねぇ。狭いねぇ」

コロナ禍の影響により、はるちゃん転職3日目にしてテレワークである。我々夫婦が住んでるマンションはもともとオイラが単身で住んでた所なので1Kである。そこに夫婦で住んでるだけでもなかなか不自由なのに、職場もふたりしてそこになったわけだ。散らかってるので写真をアップできないのが申し訳ないけども、狭い部屋にデスクをふたつ並べて黙々とPCをいじる。たまに思い出したようにはるちゃんがヨガを始める。その横でオイラはスンとした顔でキーボードを叩く。猫が暴れる。そして腰に爆弾を抱えているオイラはそのうち「ウポァッ! 下半身の感覚がねぇ!」といいながらベッドに倒れ込んで悶絶する。今度ははるちゃんがその横でスンとした顔で仕事をする。

そして一番ビビったのが休憩時間だ。これはもうカルチャーショックと言っていい。

「ああ、腹減った……。なんか飯行かない?」
「ちょっとまって。まだ休憩時間じゃないから……」
「……まだ休憩時間じゃないから?!」
「休憩13時からだからそれまで仕事しないといけないの」
「休憩13時からだからそれまで仕事しないといけないの?!」
「『麒麟がくる』の長谷川博己のマネするのやめて!」
「てかいいじゃん別に、誰も見てねぇし。サボっちまえよ。自宅ぞ、ここ」
「ばっちり見えてるわよこれ」
「ばっちり見えてるわよこれ?!」
「長谷川博己のマネしないで! てか今カメラ写ってるわよ」
「え、今? ナウで?」
「ナウで。ミーティング中だもん。ひろしの長谷川博己ネタも聞こえてるわよ」
「うそだろ!?」
「何のためのヘッドセットだと思ってたの……」
「ネットラジオでも聴いてンのかと思ってた……」

奥さんと一緒に部屋にいるのに、好きな時間に飯に行けない。それどころか自宅で仕事してるのに監視されてる事がある、という状況。これはマジで想定外の事件だった。てか「休憩時間」という概念がオイラの中から消え去って久しいけども、久々に食らったその不自由な感じはあまりに居心地が悪すぎた。何となく納得できない気持ちで机に座る。憤懣やる方なし。猫を膝に乗せてしばらく考える。ヘッドセットに向かって何やら発言したり頷いたりする妻。時刻はお昼ちょっと前だ。よし、はるちゃんがそのつもりならオイラにも考えがある。

2つあるディスプレイのうち、ひとつの角度を調整して微妙にはるちゃんの方に向ける。はるちゃんの業務用PCからは決して見えない位置。それでいてはるちゃんの横目にはギリギリで映る位置だ。マウスを操作してボートレースの番組表を表示する。ブフォ、という音が聞こえた。その後わざとらしく咳き込む音。

「すいません、コーヒーが喉に入ってむせました……。はい、すいません。じゃああの、こっちの商品の写真は……。あ、なるほど、わかりました」

そのままテレボートにログインして1000円入金する。画面倍率をあげてちょっと文字を見やすくしたあと、フォーメーション購入のタブから6-全-全をマークする。ベット金額に100円を入金したあと購入ボタンをクリック。画面には「口座残高が足りません」と出た。

「……く。くく」

はるちゃんが真面目な顔しながら鼻をぴくぴくさせていた。あ。これ懐かしいな、と思った。中学時代。好きな女の子と隣の席になったら、その子が先生から当てられて起立するたびにオイラは変な事して笑わせていた。ある時は変顔をし、ある時はノートの落書きを見せ。あるいはその子にだけ微妙に聞こえるギャグを放ち。ゲームボーイの起動音。あのコインが跳ねる音を微妙な音量で流す、というのもめちゃウケたものだった。

「いや、はい。すいません。わかりました。では、休憩に入って、午後からそちらを……。はい。承知しました……。失礼します」

ヘッドセットを外し、PCをログオフする妻。ジトッとした目でこちらを見て、そしてこういった。

「もう! さっきのレース買うなら5-全-全の方がいいわよ!」

テレワーク初日の午前の事だった。

──引っ越し予定日まであと-35日

 

著者プロフィール画像
あしの

浅草在住。猫とホラー映画とパチスロを愛する39歳。パチ7にて『インタビューウィズスロッター』連載中。『5スロで稼げるか?』(www.5suro.com/blog)の中の人。ボートレースはからっきし初学者ですが、自分自身で楽しみながらその面白さをお伝えしていきたいと思います。

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